えびすの三線ライフ

三線を弾き、唄い、学び、暮らす。還暦を迎えてなお新しい景色を求めながら、八重山民謡の稽古と日々の暮らしを重ねています。小さな積み重ねの中にある喜びや気づきを、ゆっくり綴っていきます。
  • 久しぶりのソロは、やっぱり緊張した

    沖縄の問題をテーマにした教職員研修。そのオープニングで、三線を演奏する機会をいただいた。

    会場は150人ほどの参加者が入るホール。久しぶりのホール舞台、しかも今回はソロでの演奏だった。

    舞台に出てみると、思っていた以上に緊張した。

    考えてみれば、このところ人前で演奏するときは、いつも誰かと一緒だった。

    娘がベースを弾く「おやこえびす」。淡路島の唄者・葉満啓祐くんとの「淡路ぬニセター」。そして三線サークルでの合奏。

    それぞれ形は違うけれど、隣には誰かがいた。

    では、一人だけで人前に立って三線を弾き、歌ったのはいつ以来だろう。

    すぐには思い出せない。それくらい久しぶりだった。

    自分の音しかない

    ソロで舞台に立つと、当たり前のことが急に重く感じられる。

    聞こえている三線は、自分の三線だけ。

    聞こえている歌声も、自分の声だけ。

    自分が音を外せば、その音がそのまま客席へ届く。三線を弾き間違えても、誰かの音に紛れることはない。

    150人ほどのオーディエンスに、自分の三線の音と、自分の声だけが届いている。

    そう意識した瞬間、普段の練習とはまったく違う緊張感が生まれた。

    家で一人で弾いているときも、演奏しているのはもちろん自分一人だ。それなのに、目の前に聴いてくれる人がいるだけで、身体の感覚まで変わってくる。

    舞台というのは不思議な場所だ。

    「一人で弾ける」と「一人で聴かせる」は違う

    来年の八重山古典民謡コンクールに向けて、毎日のように一人で課題曲を練習している。

    暗譜・暗唱を進め、三線のミスを減らし、声の響きや高音の強さも磨いている。

    それでも今回改めて感じた。

    一人で弾けることと、一人で人に聴かせられることは、別の力だ。

    誰かと一緒に演奏する楽しさは大きい。音を合わせ、呼吸を合わせることで、一人では生まれない音楽になる。

    一方で、ソロには逃げ場がない。

    三線も歌も、間の取り方も、最初から最後まで自分一人で引き受ける。

    その緊張感の中でも、普段やっていることを普段どおりに出せるか。

    今回の舞台は、自分に足りないものを確認する、とてもいい機会になった。

  • 8月に入ってから、課題曲7曲を繰り返し通してきた。

    回数を重ねたことで、暗譜・暗唱についての不安はかなり小さくなってきた。以前なら「次の歌詞は何だったか」「この後の手はどうだったか」と、どこかで記憶を探りながら演奏していた部分も、今はかなり自然に出てくるようになった。

    そうなると、次の課題が見えてくる。

    声の響きをさらに豊かにすること。高音でも声量を落とさず、力強く歌えるようにすること。

    このあたりは、もちろん引き続き磨いていく。

    そして、もう一つ。これから意識して取り組みたいのが、三線をノーミスで弾き切ることだ。

    「弾ける」から「間違えない」へ

    今の段階では、課題曲は一通り弾ける。

    しかし、「弾ける」と「一度もミスをせずに弾き切れる」は、同じではない。

    ちょっとした勘所のズレ。わずかな手順の迷い。集中が途切れた瞬間に出る弾き間違い。

    普段の稽古なら、そのまま弾き続ければ済む程度のミスでも、本番ではできるだけ減らしておきたい。

    まだコンクールに向けた「仕上げ」の段階ではない。

    それでも、ノーミスで弾ける確率を高めることに、早過ぎるということはないと思う。

    むしろ今から、「間違えずに最後まで弾き切る」という意識を日々の稽古に組み込んでおけば、それが少しずつ当たり前になっていくはずだ。

    一曲に集中するということ

    最近、自分の稽古で大切にしているのが、今演奏している一曲だけに集中することだ。

    回数をこなすことを考えない。

    次に弾く曲のことも考えない。

    ただ、今の一音、今の一節に意識を向ける。

    その集中の先にあるのが、ノーミスで、なおかつ完成度の高い演奏なのだと思う。

    ただ間違えなければいいわけではない。

    三線を正確に弾きながら、声をしっかり響かせ、高音にも力強さを持たせ、曲全体の流れや表情まで意識する。

    それらを同時にできてこそ、本当の意味での「ノーミス」だろう。

    集中した状態を「通常モード」に

    本番だけ集中しようとしても、おそらくうまくいかない。

    だからこそ、普段の稽古から一曲一曲を本番のつもりで弾く。

    「今日はうまく弾けた」ではなく、高い確率でノーミスの演奏を再現できる状態をつくっていきたい。

    そのために必要なのは、特別なことではなく、日々の一本一本の演奏に集中すること。

    一曲が始まったら、その曲だけを見る。

    一音ずつ丁寧に積み上げ、最後まで集中を切らさない。

    そして、その集中力そのものを鍛えていく。

    ノーミスで完成度の高い演奏を目指す集中状態を、「特別なモード」ではなく「通常モード」にする。

    これからの稽古では、そこにこだわってみようと思う。

  • 三線を続けていると、ときどきイベントなどで演奏する機会をいただく。

    もちろん、人前で三線を弾き、歌を聴いてもらえること自体がうれしい。でも、イベントに出演する楽しみは、それだけではない。

    そこには、いつも新しい出会いがある。

    演奏を聴いてくれた人。同じ舞台に立った出演者。声をかけてくれた主催者。そして、舞台を支えている運営スタッフ。

    考えてみれば、どの人たちも、三線をやっていなければ出会うことのなかった人たちだ。

    出会いは、その瞬間だけでもいい

    もちろん、一度出会ったからといって、その後もずっと関係が続いていくわけではない。

    むしろ、一度きりの出会いのほうが多いかもしれない。

    イベントが終われば、それぞれの日常に戻っていく。その後、二度と会わない人もいる。

    それでも、その出会いに意味がないとは思わない。

    少し話をするだけでも、自分とは違う仕事をしていたり、違う趣味を持っていたり、まったく違う人生を歩んできた人の考え方に触れることがある。

    「そんな世界があるのか」

    「そんな考え方もあるのか」

    ほんの短い会話から、自分の知らなかった価値観を知ることもある。

    人との出会いとは、必ずしも「長く付き合うこと」だけに価値があるわけではないのだと思う。

    三線が、自分の世界を広げてくれる

    もし三線をやっていなかったら、自分の生活圏や仕事上の人間関係だけで毎日を過ごしていたかもしれない。

    三線を持って外へ出て、人前で歌う。

    それだけで、普段なら交わることのなかった人たちと接点が生まれる。

    そして、その一つひとつの出会いが、自分の世界を少しずつ広げてくれている。

    三線が上達することも楽しい。新しい曲を覚えることも、人前でいい演奏ができることもうれしい。

    でも、長く続けていると、それとはまた違った三線の魅力が見えてくる。

    三線を通じて、人と出会えること。

    一度きりの出会いも含めて、いろいろな人と出会い、いろいろな価値観に触れる。

    そう考えると、三線を始めたことで、ずいぶん人生の景色が広がったように思う。

    これからも三線を抱えて、いろいろな場所へ出かけていきたい。

    そこでどんな人と出会えるのか。

    それもまた、三線を続ける楽しみのひとつだ。

  • 7月に石垣島で対面稽古を受けた際、師匠から指摘された課題のひとつが「声量」だった。

    特に、高音部分になると声量が落ちてしまう。

    それ以来、この1か月ほど、「無駄な力を入れずに、どうすれば高音に力強さを出せるのか」を意識しながら稽古を続けてきた。

    高い声を出そうとすると、どうしても喉に力が入りやすい。しかし、力任せに声を出そうとしても、苦しくなるだけで、思うような響きにはならない。

    そこで、いろいろと身体の使い方を試してきた。

    最近になって、少しずつ「この感覚かな」と思えるものが見つかってきた。

    まず、喉にはできるだけ力を入れない。その代わり、お腹の支えに意識を集中する。そして、声を鼻腔のあたりに当てていくようなイメージで歌う。

    この三つがうまく噛み合ったとき、高音でも細くならず、これまでより力強い声が出る。

    もちろん、これはあくまで自分の身体の中で感じている感覚だ。

    歌は身体そのものが楽器なので、「こうすれば必ず正解」というものではないのだろう。自分の身体を使って試しながら、自分にフィットする感覚を探していくしかない。

    対面稽古から1か月。

    まだ「身についた」と言える段階ではないが、以前よりも高音に力強さが出てきた実感はある。

    次の課題は、この感覚を「意識すればできる」から「意識しなくてもできる」へ持っていくことだ。

    お腹で支える。喉は力ませない。響きを鼻腔のあたりへ持っていく。

    今は一つひとつ確認しながら歌っているが、繰り返していけば、やがて身体が自然にその使い方を選んでくれるようになるはずだ。

    頭で理解したことを、身体の感覚へ。

    そして、その感覚を無意識の動きへ。

    そのために必要なのは、やはり繰り返すこと。

    少しずつつかみ始めた「強い高音」の感覚を、これからの稽古でしっかり身体に定着させていきたい。

  • 今年11月に開催される八重山古典民謡保存会50周年記念公演に向けて、演奏曲とともに衣装の準備も進めている。

    今回、指定されている衣装は紋付袴とムイチャー。紋付袴はすでに持っているので、新たにムイチャーを注文した。

    ムイチャーは、八重山の伝統的な衣装の一つ。丈が短めの着物で、庶民の暮らしや労働と結びついた装いが、祭祀や舞踊、民謡などの芸能にも受け継がれてきたものだ。

    今回注文したムイチャーは既製品ではなく、自分のサイズを測って仕立ててもらう。当然、それなりの手間もかかるので、値段もそこそこする。

    そこで思う。

    「50周年記念公演の1回だけでは、もったいないな」

    せっかく自分の身体に合わせて仕立ててもらう「自分専用」のムイチャーなのだから、これからも八重山民謡を演奏する機会には、積極的に袖を通したい。

    これまで三線を弾くときは、かりゆしウェアを着ることが多かった。しかし、八重山古典民謡を本格的に学ぶようになって、歌や三線だけでなく、発音や歌詞の意味、島の歴史や暮らし、そして衣装へと興味が広がってきた。

    少し改まった舞台なら紋付袴、八重山らしい雰囲気で演奏するときにはムイチャー、気軽なイベントならかりゆしウェア。

    演奏する曲や場所によって衣装を選ぶのも、これからの楽しみの一つになりそうだ。

    まずは11月の50周年記念公演。

    新しいムイチャーに袖を通して、しっかり舞台を務めたい。

    そして公演が終わったあとも、タンスの奥にはしまい込まない。

    そこそこの値段もしたことだし、せっかく自分のために仕立ててもらった一着なのだから。

  • 8月の月間目標として取り組んでいる、コンクール課題曲7曲をそれぞれ100回以上通す練習。

    今のところ順調にノルマを消化できている。

    毎日繰り返していると、7曲を通すこと自体にもずいぶん慣れてきた。数をこなすことで見えてくるものは確かにある。

    何度も繰り返すからこそ、三線の手が自然に動くようになる。歌詞や旋律が身体に入ってくる。以前なら意識しなければできなかったことが、少しずつ無意識でもできるようになってくる。

    そして、同じことを毎日続けているからこそ、その日の声の調子や、ちょっとした音程のズレ、三線と歌の微妙な噛み合わせなどにも気づくようになる。

    やはり「数稽古」には意味がある。

    ただ、最近少し気になることが出てきた。

    「あと何曲できるか」を考えてしまう

    100回という数字を目標にすると、どうしても回数が気になる。

    「今日はあと何回やろう」

    「今月中に100回に届かせるには、このペースで大丈夫か」

    「出勤までに、あと何曲通せるか」

    そんなことを考えながら弾いている自分がいる。

    もともと私は、先のことを考えすぎるところがある。

    計画を立てること自体は悪いことではない。むしろ、来年のコンクールを目標に長期的に練習していくには必要なことだと思う。

    しかし、演奏している最中まで先のことを考える必要はない。

    赤馬節を弾いているのに、その先の上原ぬ島節のことを考えている。

    今の一節を歌っているのに、「あと何回できるだろう」と考えている。

    身体は目の前の曲を演奏しているのに、意識だけが未来へ行ってしまっている。

    これではいけないな、と気づいた。

    出勤時間が来れば、そこで終わり

    そこで今朝は、少し意識を変えてみた。

    今、弾いている曲だけに集中する。

    回数については、あまり考えない。

    朝の練習時間には限りがある。出勤する時間が来れば、そこで終わりなのだから、それまでに何回できるかを気にしても仕方がない。

    それよりも、今弾いている一曲をきちんと演奏する。

    三線の音を聴く。

    自分の声を聴く。

    音程や響き、息の流れを感じる。

    一つひとつの音に意識を向ける。

    そんな気持ちで練習してみた。

    すると、不思議なことに時間が短く感じられた。

    「あと何曲」「あと何回」と考えているときよりも、目の前の演奏に集中しているほうが、あっという間に時間が過ぎていく。

    しかも、終わってみれば、いつものノルマはちゃんとこなせていた。

    回数を気にしなくても、回数は積み上がっていたのである。

    技術が上がるほど、メンタルの比重が大きくなる

    この経験から、もう一つ感じたことがある。

    ある程度まで技術が身についてくると、演奏におけるメンタルの比重が大きくなってくるのではないかということだ。

    もちろん、まだまだ技術的な課題はたくさんある。

    しかし、ある程度弾ける。歌える。暗譜もできている。

    そうなってくると、その力を本番でどれだけ引き出せるかが重要になる。

    コンクール本番では、緊張する。

    「間違えたらどうしよう」

    「次の歌詞は何だったか」

    「審査員はどう聴いているだろう」

    そんなふうに意識が目の前の演奏から離れた瞬間に、普段ならしないようなミスが出ることもある。

    だからこそ、普段の稽古から、

    「今、この一音、この一節、この曲に集中する」

    という練習をしておく必要があるのだと思う。

    100回の先にあるもの

    7曲100回という8月の目標は、単に数字を達成するために設定したものではない。

    数を重ねることで曲を身体に染み込ませ、演奏を安定させ、そこからさらに一段上へ進むためのものだ。

    そう考えると、今ちょうど次の段階に入り始めているのかもしれない。

    「何回弾いたか」から、

    「その一回を、どれだけ集中して弾いたか」へ。

    数をこなすことを否定するのではない。

    数をこなしてきたからこそ、次に意識すべきことが見えてきたのだと思う。

    技術だけではなく、意識の持ち方もトレーニングする。

    先のことは、演奏が終わってから考えればいい。

    曲が始まったら、その曲だけを見る。

    今、この瞬間の演奏に集中する。

    残りの8月は、100回という数字を積み重ねながら、同時にそんな「集中する力」も鍛えていきたい。

  • 昨夜は、三線サークルの練習日だった。

    サークルでは、全体練習が始まるまでの時間、それぞれがウォームアップを兼ねて好きな曲を練習している。

    私もその時間を使って、来年のコンクール課題曲を何曲か弾き歌いしてみた。

    周りには何人もいるけれど、みんな自分の練習に集中している。別に私の演奏を聴いているわけではない。

    それでも、一人で家で練習しているのとは、やはり感覚が違う。

    「周りに人がいる」

    ただそれだけなのに、普段なら間違えないようなところで、ちょっと指が引っかかったり、歌が微妙に不安定になったりする。

    細かいミスが出る。

    面白いものだと思う。

    誰も聴いていないと頭では分かっていても、人の気配があるだけで、どこかに「聴かれているかもしれない」という意識が生まれるのだろう。

    そして、しばらく課題曲を弾いていると、少し様子が変わった。

    普段のサークルでは演奏しない、みんなにとって聞いたことのない曲だったからだろう。

    一人、また一人と手が止まり、こちらを見ている。

    明らかに聴いている。

    しめしめ。

    こちらとしては、願ってもない展開である。

    そのまま演奏を続けながら、「人に注目されている状態で、いつも通り演奏する」という練習をさせてもらった。

    コンクール本番では、当然ながら審査員がこちらを見ている。会場には観客もいる。そして「評価される」という緊張感まで加わる。

    いきなりその環境に飛び込んで、普段の力を100%出そうとしても難しい。

    だからこそ、日頃の稽古の中に少しずつ「人に聴かれる」という負荷を入れていくことが大切なのだと思う。

    一人で弾く。

    人がいる場所で弾く。

    誰かが何となく聴いている中で弾く。

    そして、自分の演奏に注目している人の前で弾く。

    同じ曲を演奏するにしても、緊張の度合いは少しずつ違う。

    この段階を一つずつ経験して、「人に聴かれていること」を特別なことではなくしていきたい。

    もちろん、毎回サークルの仲間に「コンクールの練習だから聴いてください」とお願いするのも申し訳ない。

    だから、昨夜のようにウォームアップの時間に弾いてみたり、ちょっとした機会に披露してみたりしながら、自然に人前で演奏する場面を増やしていこうと思う。

    本番に強くなるためには、本番だけを想像していても足りない。

    普段の稽古の中に、小さな「本番」をたくさん作る。

    昨夜は、そのためのちょうどいい練習になった。

  • 8月、9月と、それぞれ1回ずつイベントで演奏する機会をいただいている。

    こうして声をかけてもらえるのはありがたい。そしてイベントが決まるたびに、「今回は何か新しい曲をやりたい」と思う。

    ところが、いざセットリストを考え始めると、結局いつも似たような曲が並んでしまう。

    弾ける曲がないわけではない。

    工工四を見ながらなら弾ける曲、家で一人ならそれなりに弾き歌いできる曲は、もっとたくさんある。しかし、「人前で披露する」となると話は別だ。

    そこで改めて感じるのが、「暗譜している曲」と「持ち歌」の間には、かなり大きな距離があるということだ。

    暗譜はできても、まだ持ち歌ではない

    曲によっては、暗譜するだけならそれほど時間はかからない。

    三線の旋律が歌のメロディラインとほぼ同じだったり、特徴的なフレーズが繰り返されたりする曲なら、集中して取り組めば1時間ほどで工工四を見ずに弾けるようになることもある。

    もちろん、歌詞の暗唱まで含めればもう少し時間は必要だが、「覚える」という段階だけなら、意外と早い曲もある。

    問題は、その先だ。

    暗譜したからといって、その曲をすぐ人前で演奏できるわけではない。

    自分にとっての「持ち歌」とは、

    ほぼ間違わず、人前でも楽しんで演奏できる曲。

    ここまで持っていくのには、かなり長い時間がかかる。

    家で弾けることと、人前で弾けること

    一人で練習しているときには問題なく弾ける。

    ところが、人前に出ると突然歌詞が飛ぶ。いつもなら間違えないところで指を外す。出だしの音が不安定になったり、知らないうちにテンポが速くなったりする。

    何度経験しても、人前で演奏する緊張感は独特だ。

    だから、持ち歌にするためには、家での練習だけでは足りないのだと思う。

    実際に人前で演奏する。緊張しながら最後まで歌う。失敗したところを練習して、また人前で演奏する。

    そんな経験を何度も重ねて、ようやく、

    「この曲なら、もう大丈夫かな」

    と思えるようになる。

    そして、そこまで来て初めて「持ち歌になった」という感覚が生まれる。

    プロの唄者は持ち歌が三桁

    民謡酒場などでライブをしているプロの唄者になると、持ち歌は三桁に及ぶと聞く。

    お客さんからのリクエストに応え、その場の雰囲気を見ながら曲を選び、何曲も続けて演奏する。そのためには、単に「弾いたことがある」という程度では到底足りない。

    100曲、200曲という曲が、必要なときにいつでも取り出せる状態で身体の中に入っているのだろう。

    そう考えると、本当にすごい。

    では、自分はどうか。

    数えてみれば、「これは持ち歌です」と言える曲は、せいぜい30曲に満たない。

    それでも、三線を始めた頃を考えれば、ずいぶん増えた。

    サークルで「持ち歌」に育てる

    自分の持ち歌が増えてきたのは、サークルでみんなと練習したり、イベントや公演で演奏したりする機会があったからだと思う。

    特に、サークルでの練習は大きい。

    新しく覚えた曲を、まずみんなと弾いてみる。

    一人では問題なく弾けていたのに、みんなと合わせるとテンポが揺れたり、歌詞が一瞬出てこなくなったりすることもある。

    それでも何度も一緒に弾き歌いしているうちに、意識しなくても指が動き、自然に歌詞が出てくるようになる。

    家で覚えた曲が、サークルで繰り返し演奏することで、少しずつ身体に馴染んでいく。

    考えてみれば、自分にとってサークルは、一人での練習と本番との間にある場所なのだと思う。

    間違えてもいい。歌詞が飛んでもいい。

    みんなと何度も演奏しながら曲を身体に入れ、ある程度自信がついたらイベントや公演で披露する。

    本番でうまくいかなかったところがあれば、また練習する。そして次の機会にもう一度演奏する。

    そうしたことを繰り返しているうちに、最初は「間違えずに最後まで弾く」ことで精いっぱいだった曲にも、少しずつ余裕が生まれてくる。

    周りの音を聴ける。お客さんの顔を見ることができる。そして何より、自分自身がその曲を歌い、三線を弾くことを楽しめる。

    そこまで来て、ようやく持ち歌になる。

    一曲ずつ、持ち歌を増やしていく

    8月、9月のイベントも、おそらくいつものおなじみの曲が中心になるだろう。

    新しい曲をやりたいという気持ちはある。でも、人前で披露する以上、「とりあえず弾けるから」というだけでセットリストに加える気にはなれない。

    だから、焦らず一曲ずつ増やしていけばいい。

    新しい曲を覚える。

    一人で繰り返し練習する。

    サークルのみんなと何度も弾き歌いする。

    そして自信がついてきたら、人前で演奏する。

    一曲が持ち歌になるまでには時間がかかる。

    だからこそ、その一曲には、自分が練習した時間だけではなく、一緒に演奏した仲間との時間や、本番で緊張した経験まで積み重なっている。

    そう考えると、持ち歌とは単に「覚えている曲」の数ではないのだと思う。

    何度も弾き、何度も歌い、みんなと合わせ、人前でも演奏しながら、自分の中に馴染んでいった曲。

    今はまだ30曲に満たない。

    それを30曲、40曲、そしていつか50曲へ。

    プロの唄者の三桁には遠く及ばなくても、自分が安心して、そして楽しんで人前で歌える曲を、これからも一曲ずつ増やしていきたい。

    「弾ける曲」を増やすだけではなく、「持ち歌」を一曲ずつ育てていく。

    サークルのみんなと楽しみながら、ぼちぼち増やしていこうと思う。

  • サークルで練習する課題曲に、新たに3曲を追加した。

    「芋(んむ)ぬ時代」
    「えんどうの花」
    「島々清(かい)しゃ」

    どれも沖縄の唄、三線に親しんでいる人なら、一度は耳にしたことがあるような有名な曲だ。

    サークルでみんなに弾いてもらう以上、まずは自分がしっかり弾けて、歌えなければならない。

    工工四を見ながら何とか弾ける、では指導するには心もとない。曲の流れや歌詞が自分の中に入っていて、みんなの演奏を聴きながら間違いやポイントに気づけるくらいにはしておきたい。

    つまり、まず自分が暗譜・暗唱するところから始めなければならない。

    「芋ぬ時代」は、浦崎芳子作詞、普久原恒勇作曲。仲本晶盛、浦崎ヤス子、民謡鶯組によって歌われた沖縄民謡だ。

    歌われているのは、芋を主食として命をつないだ苦しい時代の記憶である。

    朝早くから母親が大きな鍋で芋を炊き、子どもたちに食べさせる。夏の暑い日も、冬の寒い雨の日も、親は子どもたちのために働いた。

    そんな時代を振り返りながら、食べ物が十分になかった時代に自分たちの命をつないでくれた親への感謝を歌っている。民謡鶯組の曲紹介でも、戦争の時代を経験し、芋を食べて命をつないだ生活が曲の背景として語られている。

    単に旋律と歌詞を覚えるだけではなく、歌われている時代を知ってから歌いたい曲だ。

    「えんどうの花」は、金城栄治作詞、宮良長包作曲。1924(大正13)年に宮良長包が曲を付けた作品である。

    えんどうの花、軒端のつばめ、幼い頃の思い出――。

    どこか懐かしく、少し寂しさを感じさせる美しい曲だ。

    興味深いのは、この曲がどこを舞台として生まれたのかについて、宮古島、大宜味村塩屋、今帰仁村など諸説があること。沖縄県立図書館の調査でも、作詞時期や舞台について複数の説が紹介されている。

    三線民謡とは少し違った抒情的な世界を持つ曲だけに、歌詞の情景を思い浮かべながら丁寧に歌えるようになりたい。

    「島々清しゃ」は、久米仁作詞、普久原恒勇作曲。

    タイトルの「清しゃ(かいしゃ)」は「美しい」という意味で、その名のとおり島々の美しさをたたえる歌だ。

    八重山の島々を俯瞰するような広がりを感じさせる曲でもあり、歌の途中に入る「サーユイヤサー」という囃子も印象的だ。沖縄音楽についてのインタビューでも、この曲について「島の総括」のような曲で、島を俯瞰して見るような視点があると語られている。

    サークルでみんなで歌えば、囃子も含めて楽しい一曲になりそうだ。

    覚えるものが、どんどん増えていく

    さて、問題はここからである。

    今年11月には、八重山古典民謡保存会の50周年記念公演がある。

    そこに向けて、以前覚えた曲をもう一度引っ張り出して復習しなければならないし、新たに覚えなければならない曲もある。

    そして何より、来年のコンクールに向けた八重山古典民謡の稽古がある。

    課題曲7曲は、今まさに繰り返し弾き込み、どんな状況でも安定して演奏できるところまで持っていこうとしている最中だ。

    その間に、新たに3曲の暗譜・暗唱。

    こうして並べてみると、

    「ちょっと増やしすぎたかな」

    とも思う。

    しかし、考えてみれば、これまでだって一曲ずつ覚えてきた。

    最初から何曲も弾けたわけではない。

    毎日少しずつ工工四を見て、歌詞を口にして、何度も間違えて、それでも繰り返しているうちに、いつの間にか工工四を見なくても指が動き、歌詞が出てくるようになった。

    今回も同じだ。

    一気に3曲覚えようと考えるから大変に感じる。

    一日一日の稽古で少しずつ前へ進めばいい。

    昨日より一節多く歌える。
    工工四を見ないで弾ける部分が少し増える。
    歌詞が自然に口から出てくるようになる。

    その積み重ねが、やがて一曲になる。

    コンクールの稽古も、記念公演の稽古も、サークルの課題曲も、結局やることは同じ。

    自分ならできると信じて、今日もコツコツと。

    また新しい3曲が、自分の中に入ってくる過程を楽しみたい。

  • 8月に入って掲げた「コンクール課題曲7曲を、それぞれ100回以上通す」という目標。今朝の練習終了時で63回と、順調に回数を積み重ねることができている。

    毎日、同じ7曲を繰り返す。

    一見すると、単純な練習である。しかし、回数を重ねているからこそ、見えてくるものがある。

    その一つが、自分自身のちょっとした「波」である。

    昨日は気持ちよく響いていた声が、今日は微妙に響かない。いつもなら無理なく届く高音が、少し苦しい。三線も、指が自然に動く日もあれば、なぜか引っかかる日がある。

    大きく調子を崩しているわけではない。「今日は体調が悪い」と自覚するほどでもない。それでも、いつもと何かが違う。

    毎日ほぼ同じことを繰り返しているから、そのわずかな違いがわかるようになってきた。

    これは、数をこなす稽古の思わぬ効用だった。

    一回一回の出来だけを見れば、「今日はうまくいった」「今日はダメだった」で終わってしまう。しかし、何十回と繰り返していると、その日の出来に一喜一憂するのではなく、自分の状態を少し離れたところから観察できるようになる。

    今は少し声が重い。今日は高音が出にくい。それでも、この状態ならどこまでできるのか。

    そんなことまで考えながら稽古するようになった。

    コンクールに向けて目指したいのは、単に「最高の演奏」が一度できることではない。

    まず、自分が今出せる最高のレベルを、少しずつ引き上げていく。そして同時に、そのレベルに近い演奏を、いつでも当たり前のように再現できるようにする。

    最高到達点を上げることと、最低ラインを引き上げること。

    この両方が必要なのだと思う。

    昨年、新人賞を受験したときに実感したことがある。

    本番の舞台では、練習のときに持っている力を100%出せるとは限らない。緊張する。いつもと環境が違う。普段なら間違えないところで指が止まることもある。

    「持てる力の7割を出せれば成功」

    新人賞の経験から、今はそう考えている。

    だからこそ、やるべきことは明確だ。

    本番でいきなり100%を出そうとするのではない。その「持てる力」そのものを引き上げておく。

    自分の実力が100なら、本番で7割出して70。でも、稽古を積み重ねて実力を120、130へと引き上げることができれば、同じ7割でも本番で出せるものは変わってくる。

    さらに、繰り返しによって演奏の再現性が高まれば、「7割」の底上げもできるはずだ。

    調子のいい日だけできる演奏ではなく、少しくらい声の響きが悪くても、高音が出にくくても、緊張していても、大きく崩れない。

    そんな演奏をつくっていきたい。

    8月も後半に入った。

    100回という数字を達成すること自体が目的ではない。その100回の中で、自分の演奏を知り、自分の身体を知り、少しずつ最高到達点と再現性を引き上げていく。

    回数を重ねた先に、何が見えてくるのか。

    ここで緩めることなく、今日もまた7曲を通す。

    一回一回を積み重ねながら、本番で当たり前のように自分の演奏ができるところまで持っていきたい。